小十郎は大きな一本の杉の木と共に、長い年月を過ごしていた。
自分の死後、遺体をここに埋めるようにと言ったのは小十郎自身だった。
政宗より預かったこの地を影ながら守り続ける為に。
命の灯が燃え尽きた後も、唯一無二の主である政宗を見守っていた。
けれど、最後に主が此処を訪れたのはもう随分昔の事である。
今日は何百年目かの小十郎の命日だった。
肉体はとうに朽ち果て木の下で眠っているが、年に一度この日になると意識だけが目覚める。
現で何をするわけでもないが、思い出深い地を眺め懐かしい日に思いを馳せる事は、小十郎にとって大切な時間となっていた。
そうしていると、いつもあっという間に時が過ぎて夜になり、再び眠りに就くという繰り返しなのだ。
今年もまた同じように過ごすはずだった。
時を止めたままの小十郎にとって、それが全てなのである。
けれど、時の歯車は知らぬ所で静かに動き始めていた。
何かが凭れかかってくる気配に気がついて、小十郎は覚醒した。
感覚を持たない存在のはずが、なぜか“暖かい”と認識する。
墓場に身体を寄せるものなど、野良猫の類だろうと思い、そっと腕を伸ばした。
少しずつ小十郎の視界が開け、もやが晴れていくと、猫と思っていたものはもっと大きな塊だった。
そのものに触れる瞬間にパリパリと音がする。
青い静電気のようなものは、その塊の表面を覆うように走り抜けたが、すぐに何事もなく消えた。
そして、伸ばしかけた手はあっけなく空を切る。
小十郎には実体がない為に、元より触れる事は叶わなかったのだ。
「・・・」
完全に視界を取り戻した小十郎は、その塊が人である事に気がついた。
そして次の瞬間に、はっとする。よく見覚えのある背中だったからだ。
思考が追いつくよりも早く、存在しない瞳から滴が溢れた。
間違えるはずなどない。意識がそう強く主張している。
―――政宗様
目の前で蹲っている人間は、かつての小十郎の主である政宗の魂を宿していたのだ。
もう姿を見る事は叶わないだろうと思っていたのに、突然舞い降りてきた奇跡は小十郎の胸を喜びで打ち震えさせた。
どうしてこの地に居るのか、なぜ自分の墓の前で眠っているのか、疑問は山ほどあったが、今はただその姿を目に焼き付ける事に必死だった。
「・・・ん」
限られた時間である事は承知していた。
だからこそ、呼吸で上下している肩も、柔らかく風になびいている髪の毛も、なにひとつ見逃すまいとじっと見つめる。
今どの位の年なのだろうか。初陣を迎えた時の主の面影があるように思えた。
―――少し線が細くなっただろうか?
―――だが魂の色は変わってはいねぇ・・・紛うこと無く政宗様だ
転生をし現世を生きている政宗の姿に、空洞の胸が満たされていく。
来年からは、今目の前にいる政宗の息災を祈ろう、そう心に誓った。
「アンタ・・・」
「・・・っ!」
政宗は身じろぎをしたかと思うと、眠たそうな目をこすりながらこちらに向かって声を発した。
突然の事に驚き、咄嗟にちらりと自分の後方を見やるが、誰も居ない。
「目の前の、アンタの事だよ。ここの人?」
「あ・・・俺の、姿が・・・」
「ちゃんと見えてる。そんなに寝ぼけてないぜ?」
「・・・」
今まで、察しのよい人間には気配を感じ取られた事もあったが、しっかりと存在を認められたのは初めてだった。
最も、こんな風に生きた人間の側に近づこうとした事がなかったせいかもしれないが。
「ここの寺の人?」
「いや、その・・・・・・墓参りに」
「Ah、わりぃ。ここか」
小十郎は、不審に思われない為にと嘘をついた。
するとすんなりと納得した政宗は、ようやく墓を背に眠りこけていた事を思い出したようだ。
「もう見つかったのかと思ったぜ。今、俺らのクラス座禅やらされてんだ」
悪戯な笑みを浮かべて、寺の方を顎で示す。
クラス―――小十郎にとっては耳慣れない言葉だが、会話の流れからして複数の人間と行動を共にしている事は察しがついた。
ゆっくりと立ち上がった政宗は、やや長めの前髪が顔にかかったのを払うように首を振る。
すると、下に隠れて見えていなかった右眼が露わになった。
「・・・っ」
はっきりと間近でみた政宗の顔には両の目が存在していた。
左目は竜の瞳を思わせるような、神秘的に金色がかった虹彩の、美しく懐かしい瞳。
そして、右目にはやや茶色みを帯びた意志の強い瞳。
それもよく見覚えのあるものだった。
「あ、薄暗くても見えるよな。俺の目。変わってんだろ」
そっと己が瞳を指し示し、政宗は何故か穏やかな笑みを浮かべている。
「綺麗な、瞳・・・ですね」
「Ha?・・・変なやつだな」
もう幾度となくその説明をしてきたのだろう慣れた様子で、生まれつき左右の目の色が違うのだと話してくれた。
「それより、アンタの目は大丈夫なのか?痛そうだな」
「いいえ、少しも痛くはありません」
政宗が覗き込んでくると、小十郎はそっと微笑んだ。
気を抜いたら涙を溢してしまいそうだったから、代わりに精一杯の笑顔で取り繕う。
小十郎の右目は空洞だった。
ここで眠りにつき、気がついた時には右目は失われていたのである。
政宗の右目として傍らで生きる事を終えてしまったから、その右目と名乗る資格がないから、失くしてしまったのだと思っていた。
けれど、その瞳は今まさに政宗の右の目として共に生きている。
これほど本望な事はあるだろうか。
「本当に、痛くないのか?」
涙を堪える為に眉をしかめていたのを、目が疼くのかと心配したようで、政宗が声をかけてくる。
「ええ、大丈夫です。・・・それより、貴方は寺を抜け出してきたんでしたね?」
話題を変えると、政宗は少し心配の色を和らげた。
「ああ。課外授業でここまで来たんだけど。座禅でじっとしてろなんざ性に合わねぇ。
せっかく遠くまで来てるんだから色々見て回る方が楽しいに決まってるだろ」
同意を求めるでもなくありのままに言葉を紡ぐところが、昔の政宗と重なる。
政務をこなすよりも、城下や隣国を視察する方がよっぽど役立つとよく嘆いていた。
「その割に、今は寝ていたみたいですが」
「Ha!確かにな!」
屈託なく笑う顔は、あの時よりも自由を感じた。
大きな宿命や自国の民の命を背負って生きていた頃とは、きっと状況が違うのだろう。
小十郎も自然と笑顔になった。
「・・・アンタ、そういう風に笑うと随分雰囲気が違うんだな」
「え・・・」
引き吊った顔をしていただろうか、と頬を引き締めると、知らず知らず眉間に皺が寄った。
「なんだよ。笑った顔もいいって意味で言ったんだぜ」
政宗の言葉に、思わずぽかんと口を開けて呆けてしまった。
遠い日の記憶の糸が手繰り寄せられる。
昔、主に似たような事を言われた覚えがあった。
作り笑顔ではなく内側から滲みでたような心からの笑顔をした時、それは大抵政宗への思慕を感じた瞬間で、その時の表情をいつも褒めてくるので、内心ひやひやとした記憶がある。
当然その顔を他の人間に向ける事はなく、そこがまた主の独占欲を満たしたようで、その笑顔は自分の前でだけ見せるようになどとも言われたものだ。
「なんだよ?変なこと言ったか?」
「いえ、・・・顔で怖がられる事が多いので驚いてしまいました。今は特に・・・、頬傷に加えて、片目もありませんから」
そう口で言いながらも、政宗の眼孔に埋め込まれた自分の瞳を嬉しそうに見やった。
外見を悲観していたり、卑屈になっているわけではないという事は伝わったようで、また屈託のない笑顔を向けてくる。
「俺は、気に入ったぜ?アンタのこと」
「・・・有り難き」
転生して前世の記憶がないというのに、以前と同じような事をもう一度言ってもらえて、嬉しさや切なさで胸が締め付けられた。
そんな胸の内を知らない政宗は、両の目を細めて無邪気に笑う。変な奴。そう口にして。
寺から少し離れた場所にあるここは、木々に覆われ昼間でも少し薄暗い。
そして奥にただ一本、とても大きな杉の木がそびえたち、その傍らに小十郎の墓があるのだった。
神聖な空気を纏う地で、二人の会話だけが聞こえていた。
虫も風も、音を奏でるもの全てが、耳を澄ませて会話を聞いているかのような静けさだった。
不思議な空間でとりとめのない話をして。
小十郎にとって、政宗と最後に過ごした遠い日以来の幸せな時間だった。
「ん、もうこんな時間か」
政宗は、腕時計に目を落として呟く。
それが時間を計る為の道具なのだろうと小十郎も理解していた。
そして、その気になれば、政宗が時間の経過に気がつかないよう仕向ける事も恐らく出来たように思う。
けれど、自分の勝手で振り回すような真似をしたくはなかった。
現実を生きる政宗を、こちら側へ呼び寄せるような行為になってしまいそうで恐ろしくもあったのだ。
必要以上に踏み込んではならないと、心得ていた。
「随分話し込んでしまいましたね」
「いや、ちょうど座禅が終わった頃だな。こっそり紛れて戻れるかもしれねぇ」
「それでは、―――様、お元気で」
今の今まで気配を殺していたかのような風が、思い出したようにざぁっ!と吹き上げた。
「・・・?今、俺の名前を呼んだか?」
政宗は、二つの色の眼を丸くして小十郎に正面から向かい合う。
「いいえ。お名前は伺っておりませんでしたから」
「だよな。・・・俺の名は」
口の前に人差し指を充てて、しー、というポーズをとって政宗の言葉を遮った。
「名前を名乗り合えば、縁が生まれましょう。けれどもう会えぬ運命なれば、不要な事です」
「・・・」
政宗は拗ねたような表情をしてみせたが、それは一瞬の事だった。
「まあ、いいか。名前なんざ重要じゃねぇ。もしいつか偶然会う事があれば、また話をしようぜ」
「・・・はい」
名前はその時にまたな、と言い残し背中を向けると、足場の悪い坂道をするすると駆け降りていく。
小十郎はその背中を見送りながら、また視界がゆっくりと閉じられていくのを感じた。
できる事ならば、戦場で守り抜いたその背中を、愛おしいただ一人の背中を、もう少し目に焼き付けたかったが、それは叶わないらしい。
まだ夕方にもなっていないというのに、霧散していく意識の中で、最期を覚悟した。
とっくの昔に現と別れを告げて、気の遠くなるような年月をここで過ごしているのだ。
心の奥底の願いが叶えられ、今一度政宗と会う事ができた今、残る悔いなど有り様もない。
毎年、政宗の健やかな暮らしを祈る事は出来なくなるが、今となってはそんな贅沢を言うつもりもなかった。
―――俺なんかが祈らなくとも、政宗様はご自分で信念を貫き、理想を叶える御方だ。
―――どうか、健やかに、幸せな暮らしを送ってくださるよう・・・・・・
「政宗、さ・・・ま・・・」
一陣の風が吹き抜けて、政宗が杉の木の方を振り返るとそこに小十郎の姿はなかった。