―――・・・・・・
目を覚ました小十郎は最悪の気分だった。
夢、と呼ぶには些かリアルすぎる感覚。
少し気を抜けば、あのどす黒い感情が溢れ出てきそうになるくらいである。
ぐ、と瞳を閉じ頭を振って、どうにか我に返った。
「・・・たかが夢じゃねぇか、馬鹿らしい」
ふう、と溜息をつくと、壁にかかった時計をみやる。
19時。
政宗はまだ帰ってきていないようだった。
まだ夏休み中ではあるが、教師には全ての日が休みになるわけではない。
今日もその出勤日だったが、政宗の夏休みが残り少ないという事もあって、なるべく定時であがって家に帰ってくるようにしていた。
だが、今日は机の上にひとつのメモが残されていて、“真田幸村の所に行って来る”と一言記されていた。
肝心の政宗が外出中という事で、何をするでもなく帰りを待っていたところ、いつの間にかソファでウトウトと眠ってしまい今に至る。
「・・・少しおせぇな」
政宗に対してはいささか過保護で心配性な小十郎は、時計をもう一度みやると、ポケットに仕舞っていた携帯電話を取り出した。
幸村の家に行っているとなれば、当然同じように定時であがっていった佐助と、とっくに出くわしているであろう。
先程の夢を引き摺っているのか、妙に胸が騒いだ。
あの夢でみた政宗の肌の鬱血は、よく知っているものだった。
たまに、どうしても政宗を自分のものだとしらしめたいような衝動的な独占欲で、何度かこっそり情事の最中に痕をつけた事がある。
それは、些細ではあるが後ろめたい欲望にも思えて、大抵は背中や脇腹、太腿の裏など、政宗本人の目につかない所にひっそりと残していた。
けれど夢の中のそれは、悪意すら感じるような独占の証。
そして、佐助が去り際に言い残した言葉。
―――運命を狂わせた男・・・
運命―――いつだったか現実の佐助も、そんな言葉を口にしていなかっただろうか。
嫌な予感を振り払うように、携帯電話の画面を開いた。
すぐに目的のナンバーを呼び出した携帯からは、機械的な呼び出し音ではなく、軽快なロックミュージックが流れる。
いつの間にか、政宗本人が設定したのだろうか。
今まで政宗は携帯を持っておらず、先日小十郎が買ってやったのだ。
もう使いこなしているのか、それとも誰かに指南してもらいそのような設定にしたのか。
過剰に心配をするあまり、そんなどうでもよい些細な事まで不安材料となる。
自分の知らない所で政宗が何かに巻き込まれているのではないか、だとか。
小十郎は、今しがた見た夢に呑み込まれそうになっていた。
音量の大きな呼び出しのメロディから耳を離し、落ち着きなく部屋を見渡したところで、微かにどこかから音が漏れ出ている事に気がつく。
少し落ち着いた重低音のメロディ。
政宗への着信を鳴らしたまま、その音を辿るように部屋を移動して、ふう、と溜息をついた。
その音は政宗のいくつかあるカバンの中の一つから聞こえていて。
それはつまり、携帯電話を持って行き忘れたことを示していた。
「全く・・・意味ねぇじゃねえか」
小十郎は、もう一度深く溜息をついた。
口の開いたカバンから政宗の携帯を取り出すと、そこには着信の液晶画面に
“片小”
とだけ表示されていた。
「・・・・・・なんだ片小って・・・」
さすがに恋人の代名詞とされているような“ダーリン”など寒い登録を期待したわけではないが、“小十郎v”や“こじゅ”くらいは、もしかすると期待していたの
かもしれない。
可愛げとは程遠い登録名に、少しがっくりと肩を落とした。
それならば単純にフルネームで登録してくれていた方がよっぽど良い。
ちなみに小十郎の携帯の中の政宗の登録名は、本人だけの秘密である。
そんな事よりも気になるのは、政宗の所在だ。
携帯を買ってやってからというもの、政宗はよほど嬉しかったのか、それこそ肌身離さず持ち歩いていた。
それなのに今日に限って持っていないなんて。
嫌な予感が加速して止まる気がしなかったので、冷静になろうとするのは諦めて、二人分の携帯を手に走り出した。
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全力で走るのは何年ぶりか、こんなにも思うように前に進まないものだっただろうかと、小十郎はもどかしさに苛立っていた。
佐助のアパートのだいたいの場所は知っていたので、あとは携帯電話に登録していた住所を検索して探せばいい。
職員同士の緊急連絡先にと、住所まで登録していて助かった。
最寄駅についてからは一歩も足を止めずに、肺や喉がひゅうひゅうと悲鳴をあげているのも構わずに走った。
漠然とした不安に支配された小十郎には、佐助が親しい同僚であるという事実は薄れはじめている。
思えば以前に佐助たちが家に遊びにきた時に、妙な違和感を感じた事があったではないか。
気配を消して背後で囁いてきた佐助。
あの時は、政宗が幸村と並んで寝息をたてている姿に動揺して、神経が過敏になっていたせいもあっての違和感であろうと流してしまっていた。
佐助から覚えのない事を言われ、誰かと人違いをされている可能性にも思い当たったが、結局それから二人きりになる機会もなかったので、確認はしていなかったのだ。
けれど、今思えば確かにあの時の佐助の瞳は、先程夢で見たあの闇色の瞳と全く同じものであった。
今ならば
―――恨むよ
あの言葉が、すんなりと現実の佐助の口から紡がれる事も想像ができる気がした。
もはやただの夢だとは思えない。
自分が実際に体験した、過去の出来事としか思えなかった。
こんな突飛な考えをするとは、自分は正気でなくなってしまったのだろうか?
小十郎自身、どちらであるともわからなかった。
自分の気が変になっているのだとして、佐助に事実を突き止めたとして、その先に政宗を失望させて嫌われたら。
その事だけが一瞬頭をよぎった。
けれど、それは今の小十郎には抑制力にはならない。
嫌われるよりも、政宗が危険に晒される事の方がよっぽど小十郎にとっての不幸だからだ。