鈍感ダーリンのその後の話ですが、単品でも読めます。
秋口に美しい三日月がのぼった夜。
少しだけひんやりとした空気に背筋がぴんとなる思いで、小十郎は廊下を歩いていた。
小十郎は、伊達家当主・輝宗の嫡男である梵天丸の傅役である。
梵天丸は、それはそれは美しい子供だ。
陶器のような白い肌に、形の良い唇。
性別すら見紛う程繊細な美しさがあった。
だが、その右目は数年前の病のせいで失明し、盛り上がってきた瞳を押し込めるように包帯でぐるぐると巻いている。
けれどそのように痛々しい姿でも、小十郎の目には憐れにうつった事など一度もなかった。
以前に輝宗の小姓をしていた時から姿を目にする事があったのだが、いつも梵天丸は寡黙ながらも意志の強そうな瞳をしていた。
どこか遠く。
先の方の空を見据えているような瞳だった。
それからというもの、その隻眼は小十郎の脳裏にやきついたまま離れなかった。
傅役につく事になったのはどこか運命的な縁があったのかもしれない。
もう自室まで目と鼻の先、という所で、ふと気まぐれに梵天丸の部屋が確認のとれる廊下に歩を進めた。
こんな夜更けに子供が起きているはずはないと思いつつも、なぜかその寝静まった部屋の戸を確かめたかったのだ。
すると、入口に人影がある。
梵天丸が暮らす離れは元々近寄る人が少ない。
ぎくりと嫌な汗が流れて、慌てて足袋のまま中庭に降り、夢中で走り寄った。
もしも不審な者が忍び込んでいるのなら一大事だ。
「・・・ぼ、梵天丸様?」
「・・・?・・・小十郎か。どうかしたか?そのように血相を変えて」
薄暗い部屋の入口でぼんやりと座っていたのは、梵天丸だった。
「梵天丸様こそ、このような夜更けに如何なさいました」
「月を眺めていただけだ」
「月・・・」
促されるように空高くのぼった三日月を仰ぎ見る。
鮮やかで鋭く光る月は、未来への展望そのものに見えた。
そしてそれは梵天丸の姿にも重なったのだ。
「確かに、美しい月です。まるで梵天丸様のお姿のよう」
「・・・?なんだ、ソレ?お前は時々変な事を言う」
「そうですか?心が感じた事をお伝えしているまでです」
小十郎は、くすりと笑んで梵天丸に視線を戻した。
そしてその小さな横顔に釘付けになった。
「空を見ていると落ち着くんだ」
梵天の月を眺める隻眼は、ひどく繊細な光を揺らしていたのである。
日中に見せる、誰にも媚びず甘えない大人びた寡黙な梵天とは違い、足場の悪い地に立たされているような不安定さを持っていた。
「梵天丸様、お風邪を召しますぞ」
小十郎は、思わず自分の羽織を梵天の肩にかけていた。
「・・・あったかいな」
すっぽりと羽織に収まった姿をみて、どこかほっとする。
自分でも温めて、支えてやる事ができるのだと思えたからだ。
いつか羽織でくるみきれなくなった頃には、一人でも強く前に進んでいく事ができるようになっているのだろう。
そしてその頃には自分という存在は必要なくなっているのだろう。
そう理解していた。
「小十郎、有難う」
「いえ、とんでもない。さ、中へ」
「ん」
それからというもの、毎晩梵天丸の部屋の入口を確認するくせがついてしまった。
部屋の戸が閉まっている時は眠っている時。
少し開いている時は寝付けず月を眺めている時。
これからどんどん寒くなっていくというのに、いつも薄着で月に見入っているものだから、開いている時は小言を欠かさない。
ある日、いつものように廊下を通ると、松明の位置が普段とずれて置かれているのか、光を頼りに梵天の部屋の入口まで見渡せなかった。
やむを得ず、草履を履き離れに近づいてみる。
眠っていれば安心なのだ。
そっと足を忍ばせて近づくと、部屋の戸はぴたりと閉まっていた。
ほっとして引き返そうとすると、かすかに呻き声のようなものが聞こえてはっとする。
注意深くまた近づいてみると、やはり声は梵天のもので、部屋の中から聞こえていた。
「・・・・・・」
うなされているのだろうか。
何者かが侵入し縛られている、などという可能性も全くないわけではないので、無礼を承知でそっと渡り廊下にあがり、部屋の戸を注意深く開いた。
「・・・ん、ん・・・〜ぅ・・・ん」
開いた事で呻き声もはっきり聞こえた。
薄暗い部屋の中、布団に横たわった梵天丸はひどくうなされている。
「・・・梵天丸様・・・」
起こすべきか否かと途方に暮れて傍に座り込んでいると、少しずつではあるが呼吸が穏やかになってきた。
ほっとして、寝息が落ち着くまでは見守っていようと、じっとその小さな顔を見詰める。
長い睫毛は呼吸と共にうっすらと揺れ、頬に影を落としていた。
梵天の、唯一の大切な左瞳だ。
そして自分が惹かれて止まない瞳。
自分が支えてやれる、などと随分奢った考えだったのかもしれない。
梵天丸を良く思っていない、母・義姫や、次男である竺丸を指示する家臣達が、心無い言葉を浴びせている事を小十郎は知っていた。
じっと耐え、笑顔もみせず、口を閉ざしている梵天丸は、時が過ぎるのを待っているように見えた。
見返す機会までは無駄に吠えない。
そういった決意のもと、ただひたすらに耐えているようだった。
大人びているとはいえ、まだ十にも満たぬ梵天にとって、それは辛いものに違いない。
何度となく口を出しそうになった。
けれど、その度に梵天は黙って首を振る。
ならば苦難を共に耐え、その重荷を少しでも一緒に抱えていこうと誓ったのだ。
けれど、このようにうなされている姿をみれば、それが思い上がりだったのだと気付かざるを得ない。
呼吸が落ち着いたのを見届けてから、小十郎はそっと部屋をあとにした。
翌日は、離れの庭で梵天丸に剣の稽古をつける日だった。
「梵天丸様、戦に出るような事があって、万が一敵に囲まれ剣を交えるような時には、全力を以って戦わねばなりませぬ」
「ああ」
「それ故、いつ如何なる時も、全力を出せるよう身体を鍛えると共に、精神力も鍛えねばなりません」
「心得ている」
そこまで話し終えて、ふと昨晩の事が頭をよぎった。
「簡単には折れぬ心、屈せぬ心、鍛えていくのも生半可な事ではありませぬが、梵天丸様は如何ですか?」
「なにがだ?」
「何かお辛い事はありませぬか?」
「・・・あるわけがないだろう?梵天が周りからどう言われているかもよくわかっている。されどそのような事で屈する梵天ではない。
お前もよくわかっているだろう」
その言葉に、梵天からの信頼感が伝わってくる。
けれど、そこまで信頼される間柄になったからこそ、小十郎にだけはわかってしまう事もあるのだ。
己自身に言い聞かせ、奮い立たせ、虚勢を張っている部分もあるという事に。
「梵天丸様の強いお心はよく存じております。
ですが、どんなに強い武人も内に秘めた歪みに向き合う事をしなければ、己の闇に足元を掬われる事もございましょう。
もしこれから先お辛い事があれば、どうかこの小十郎にだけは心の内をお聞かせください」
「・・・」
梵天は、隻眼を丸くして、じっと小十郎の瞳を凝視していた。
「わかった。そういう事があれば、そうしよう。けれど心配には及ばない。俺は元気だ」
「左様でございますか」
梵天はくるりと背を向けると、傍に置いていた木刀を持ち、続きを頼む、と力強い声で言った。
複雑な思いで小さな背を見詰める。
ただ自己満足で梵天丸に頼ってきてほしいだけなのかもしれない。
もっと信頼してほしくて、そのきっかけを探しているだけなのかもしれない。
そしてその奥底には、この任を全うしても、お傍にいたいという気持ちが隠れているのかもしれない。
己の気持ちにまで疑いをかけそうになり、首を振った。
例え自分自身の欲が隠れていたとしても、梵天を心配する気持ちに嘘偽りはない。
それがわかっていれば迷う必要はないし、全力で力添えするまでだ。
「御意。存分に鍛錬いたしましょう」
「小十郎は加減を知らないからな」
振り向いた梵天は、少しはにかんで笑ってみせる。
時々見せてくれる笑顔に、小十郎は奮い立たせられるのだ。
この方がもっと笑顔をみせてくださるよう、悪夢に苛まれることのないように。
「小十郎は力をまだ半分もだしておりませぬぞ」
「な、なんだと!・・・すぐに追いついてやるんだからな」
途端に膨れた顔をした梵天丸は、いつにも増して熱心に向かってくるのだった。
この様子ならば、今晩はぐっすりと眠ってくれるだろう。