「こじゅーろー!」


次の日、畑から戻ってくると、成実が駆け寄ってきた。


「今日はなんです?」

「単刀直入にきいちゃうけどさ、梵と、なんかあった?」

「は・・・?」


ぎくりとした。

まさか昨晩の出来事を見られたのか?という考えがよぎるが、あれは政宗の部屋の更に奥での出来事である。

窺い見る事などできないはずだ。


もやもやと考え込む小十郎には気がついていない様子で、成実は言葉を続ける。


「なんかさ、今日やたら機嫌いいんだ。梵ってば」

「・・・はあ」

「かと思うと、なんか、急に溜息ついたりしてさー。それの繰り返し。もう恋煩いそのものっていうかさ」

「こ、恋煩い・・・?!」


思わず声が裏返ってしまった。


「お?おお?まさか本当に進展があった?」

「進展・・・?いや、詳しい事は存じませんが・・・・・・そういう事か」


成実が疑問符を頭にのせたような顔をしているのもそのままに、小十郎は自室に急いだ。


何故だか無性に身体を動かしたい気分になったからだ。


朝の早いうちから出掛けていた為にまだ日も高い。

稽古をしている兵もたくさんいるだろう。


野良着から着替えると、すぐさま稽古場へと向かった。


その道中も、頭を支配しているのは先程の成実の言葉だ。


“恋煩い”

謎が解けた思いだった。


きっと政宗は誰かに恋をしているのだ。

昨晩は、夢うつつの中その娘の夢でも見ていたのだろう。

そしてあの口付けだ。


今まで女に現を抜かしている様子は一度も見た事がなかった為に、色恋に関心が薄いのだと思い込んでいた。

だとすれば遅めの初恋といったところか。


今までは、政宗の生活の要となるものは政と戦。

そして合間をぬっては多彩な趣味の時間に費やしていた。


色恋は二の次だった政宗の心を奪った女とはどのような人物なのか。

女性の好みなどを聞いた覚えもないから全く想像がつかない。


小十郎は、そこまで考えてふと自嘲気味に笑った。


いくら竜の右目と呼ばれるほどの存在になったとはいえ、そんな込み入った話まで聞く権利などない。




稽古場につくと、そこには数人の兵士とともに政宗の姿もあった。


「よお。小十郎」

「政宗様!・・・今日は書状を書かれていたのでは・・・」

「そんなもん朝のうちに終わらせたぜ」

「・・・随分とお早いですね」


いつもならばもう少し時間がかかっているはずだから、思わず正直な感想がでてしまう。


「ちょっとな。今日は朝から気分がいいんだ。務めも捗るってもんだ」


成実の言う通り、随分機嫌が良いようだ。


「なあ、久し振りに手合わせしようぜ」

「御意」


願ってもない事だった。

政宗の上機嫌とは裏腹に、小十郎は無性にもやもやとして気が晴れないままで、そこらの兵士との打ち合いでは物足りないと思っていた。


今まで政宗の相手をさせられていた兵士は、当然加減されていたにも関わらず、滝のような汗をかいてへばっている。

物足りないのは政宗も同じなのだろう。


「いくぜ!」


荒々しく木刀を投げて寄越すと、すぐに距離をつめてきた。

それも予測したうえでその木刀を弾くべく小十郎も打ち込んでいく。


長い事稽古をしていたのか、少しだけいつもより押してくる力が弱い。

けれど鍛錬ともなれば、主だろうと厳しく手加減なしに相手をするのが当たり前になっている。


その時の疲労具合や、個人的な気分の浮き沈みで実力がだせないようでは困るのだ。


容赦のない一撃を肩口目掛けて振り下ろした時、寸でのところで避けた政宗が不自然に尻餅をつく。


「う・・・わ!」


足元に先程の兵士の汗の雫がこぼれていて、滑ってしまったのだ。


畳み掛けるようにもう一撃、肩に触れないぎりぎりのところに振り下ろして動きを封じた。


「一本、ですな」

「畜生・・・」


悔しそうに顔を歪める政宗の唇の端が切れていた。

先程の一撃を避けた時に、誤って噛み切ってしまったのかもしれない。


「政宗様、唇から血が」

「Ah?」


確かめる為に自ら触れようとしていた手を思わず制する。


「腫れているようですし、お手を触れぬよう。今布を濡らしてきますので」

「大袈裟だな、こんなん舐めときゃ治るだろ」


不満そうな声をだすものの、両手で頬に触れて口を開けるように無言で促せば、素直にその口を開いた。


「外側だけだろ?切れてるの」

「ええ・・・大丈夫そうですが、もう少し腫れるかもしれませんね」


咥内までは切れておらず、唇からの血で僅かに染まっている程度である。


そうして政宗の唇を見詰めているうちに、急に昨晩の出来事を思い出してしまった。


突然触れた柔らかい温もりを。

酒のせいか眠っていたせいか、その唇はひどく温かくて心地よかった。


「こ、じゅうろう?・・・近い」

「え・・・ああ、すみません」


その唇に見入っていてかなり近い距離で見詰めていた事に気がついて慌てる。


「血の味は不味くて好きじゃねえ」


ぽつり、と政宗が呟いた。


「存じております。ですから今布を」

「お前が舐めてくれよ」

「・・・・・・は?」


小十郎が数秒固まったのち、やっと声を出した。


「だから、お前が手当てしてくれるんだろ?」

「それは勿論そうですが」

「だったら舐めろよ」


ゆるく開いたままの唇から目が離せなくなってしまう。

色気すら醸し出す赤く染まったそこを見詰めていると、高揚感に頭がくらりとした。


色恋をするのは勝手だが、周りにまでその色香を振りまかれたら迷惑だ、と心の中で悪態をつく。

恋をして、そういった触れあい自体にも興味がでてきてしまったのか?


誰でもいいわけではないだろうに。

そう思うと何故か胸がちくりと痛んだ。


そしてもう一度、政宗の頬を両手で包んだ。

舐めるつもりでそうしたのではない。


顔をこちらに向かせて、「戯れもいい加減に」と説教するつもりだったのだ。


けれど、そのままふるりと睫毛が伏せられて、ほんの少し唇を近づけられて。

何かの暗示にかかったように、気付けばそっと舌で舐めとっていた。


血の味が甘く感じたのは初めてだ。


痛まぬよう、力をかけぬようにと、優しく舌を這わせて、そっと離す。


「もっとだ」


そう言ってまた距離を縮めようとした政宗が、今度は明らかに口付けをしようとしている気配を感じ取り、さっと血の気がひいた。


―――俺はなにしてんだ?


「もう、血は止まっております」


政宗の肩を強く押し、そのまま距離をとるように一歩後へ下がって片膝をついた。


「・・・」


何か言いたげに立っていた政宗も、少しの間ののち、「湯を浴びる」と稽古場から出て行った。


視線を伏せていたので表情はみえなかったが、心なしか不貞腐れたような声に聞こえた。


政宗の足音が遠ざかっていくと同時に、自分の心臓が思い出したかのように、どくどくといい始める。

いくら言いつけられたからとはいえ、あれでは口付けをしたのとさして変わりない。


昨晩、寝惚けた政宗に口付けをされたせいで、主と従者の距離のとり方を忘れてしまったのかもしれない。


そして、背後には成実や兵士達が、慌てて身を隠した気配があったので、振り向くに振り向けなくなり、気まずい事この上なかった。




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